第11回 基礎プログラミング I レポート課題 氏名:花木剛志 学籍番号:c109126A 語学クラス:英語3 コース(系):地域共創 チーム名:SEONGOKU チームホームページアドレス:http://roy/~c109056/SENGOKU/ プロジェクト名:未定 1A:ホームページを参照 アドレス:http://roy/~c109126/index.html 2A:「武将名鑑」、「SENGOKUクイズ」のふたつです。 チーム名が「SENGOKU」なので、武将の名鑑を作成することはすぐに決まりま した。もう一つが年表とクイズで悩みましたが、みんなに楽しんでもらうため に、クイズに決定しました。 B:僕は「武将名鑑」のプロジェクトに参加しました。 アドレス:http://roy/~c109056/SENGOKUmeikan/index.html 僕が担当したのは武将のデータベースです。 C:僕達の班では二人ずつでプログラムを担当、リーダーの木内君がホームページ を担当するという形にしました。 斉藤拓哉君とパートナーを組み、以前作成した検索できるプログラムを使用。 斉藤君が作ったプログラムの方が今回のテーマに適していたようなので、斉 藤君がプログラムの改良、企画書、解説書を担当。僕が量が多いデータを打ち 込む作業を担当。プログラムを実行した際の不 備は二人で考え、改善してい きました。 作成したデータは以下の通りです。 #名前 #解説 a:伊逹政宗(だてまさむね) 1567〜1636。伊逹家17代目当主。現在の宮城・山形・副島を広く治める。幼年の頃に右目を失明し「独眼龍」と称される。18歳で当主となり、天下を狙い続けた。戦国屈指の教養人と言われている。安土桃山時代には豊臣秀吉の命令を無視して領土を拡張し対立したが、徳川家からの終戦があり窮地を脱出。関ケ原の合戦では徳川軍につき、最上陣をつとめ勝利に貢献。 b:上杉謙信(うえすぎけんしん) 1530〜1578。上杉重房を初代として16代目。現在の新潟〜富山を治めた、戦国時代屈指の武将。内乱続きだった自国を武力で統一し、産業を進行して国を繁栄させた。武田信玄とは幾度となく大規模な合戦を行っている。大変慈悲深い人物として知られ、離反を起こした部下を許したり、直接利益のない闘いでも、秩序復活のためとして出兵させた。 c:武田信玄(たけだしんげん) 1521〜1573。甲斐国守護武田信虎の嫡長子として生まれる。現在の長野県、山梨県付近を治めた、戦国随一の武将。上杉謙信の領土とは隣合わせになっており、大規模な合戦が繰り広げられた。(川中島の戦い)「風林火山」の軍旗が有名。自国が海に面しておらず、上杉謙信から塩を送られていた。また、武田家の隆盛は、信玄の死とともに終わりを告げる。 d:今川義元(いまがわよしもと) 1519〜1560。現在の静岡県の中部・東部を治めた武将。革命的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも優れた才能を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も・遠江・東三河から、から、西三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築いた。しかし尾張に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れ、戦死した。 e:徳川家康(とくがわいえやす) 1543〜1616。江戸幕府初代征夷大将軍。幼少時代は織田氏・今川氏の人質として過ごしたが、桶狭間の戦いで独立。その後は織田信長と同盟し、豊臣秀吉に臣従した後、日本全国を支配する体制を確立して、15世紀後半に起こった応仁の乱から100年以上も続いた戦乱の時代(戦国時代、安土桃山時代)に終止符を打った。 f:織田信長(おだのぶなが) 1534〜1582。幼少の頃から奇行が目立ったが、当主となると将才を発揮。桶狭間の戦いでは今川義元を破る。1568年には足利義昭を擁して上洛し、事実上天下をにぎる。その後も有力武将を滅ぼして勢力を拡大していったが、中国地方の毛利氏征伐に向かう途中、本能寺で家臣の明智光秀に襲われ自害する。合理主義で、時には非情な決断も辞さなかった。 g:羽柴秀吉(はしばひでよし) 1537〜1598。後の豊臣秀吉である。元々は百姓であり、そこから征夷大将軍まで昇りつめた戦国一の出世頭である。当初は今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を表す。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、「中国大返し」により京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破る。その後大坂城を築き、日本全国の大名を従え天下統一を成し遂げた。 h:明智光秀(あけちみつひで) 1528〜1582。織田信長配下武将として、各方面の攻略で名を挙げていたが、1582年に羽柴秀吉の毛利家攻略に従軍する途中、突如反旗を翻し、信長が宿泊していた本能寺を襲撃。信長を自害に追い込んだ。しかし、急報を聞いた秀吉軍と戦って破れ、落ち伸びる途中に襲撃にあって、無念の死をとげる。なお、信長に反旗を翻した原因としては諸説ある。 i:足利義昭(あしかがよしあき) 1537〜1597。室町幕府の第15代将軍で、室町幕府最後の将軍。織田信長に擁立され将軍に就任するが、次第に対立。本能寺で信長包囲網を結成して一時苦しめるが、次々に撃退されたうえに自身も挙兵に失敗して、京を追放される。その後は室町幕府の将軍であったこともあってか、大名としては優遇されたようだ。 j:毛利元就(もうりもとなり) 1497〜1571。安芸の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、戦国時代最高の名将の一人と後世評される。用意周到な策略で自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。晩年には足利義昭に信長包囲網の協力を求められるが、信長の実力を認めていた元就は酸化しなかった。 k:柴田勝家(しばたかついえ) 1522〜1583。若いころから尾張の織田信秀の家臣として仕えた。信長に一度反抗した人物にも関らず、信長は勝家の武略を高く評価して厚い信任を置いた。生涯を通して合戦での活躍が目立つが、政治家としても優秀な人物であり、善政を敷き、領地をよく治めたといわれている。 l:竹中重治(たけなかしげはる) 1544〜1579。竹中 半兵衛(たけなか はんべえ)の通称で有名。戦国時代を代表する軍師としても知られ、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の参謀として活躍する。体が弱く見た目は痩身で女性のようであり、陣するときも静かに馬に乗っているだけだったという。 m:真田信繁(さなだのぶしげ) 1567?〜1615?。武田信玄の家臣であった真田幸隆の孫。大坂の役で活躍。特に大坂夏の陣では、寡兵を持って徳川本陣まで攻め込み、徳川家康を後一歩のところまで追いつめたとされる。一般には江戸時代になってから、講談等でその名将ぶりが知られる事になる。 n:石田三成(いしだみつなり) 1560〜1600。羽柴秀吉が織田信長に仕えて近江長浜城(長浜市)主となった天正2年(1574 年)頃から秀吉の小姓として仕える。秀吉の死後は、大老として仕えていた徳川家康と対立を深め、関ケ原で対峙。西軍の大将であったがこの戦いで破れ、家康の命により斬首された。 o:直江兼続(なおえかねつぐ) 1560〜1619。上杉氏の家老で関ケ原の戦いなどで活躍。大変人情深い武将として知られる。気転に富み、上杉景勝や豊臣秀吉に重用された。関ヶ原の合戦前に徳川家康に宛てて書いた「直江状」が有名。「愛」という字を前立にあしらった兜をつけていた。 p:前田利家(まえだとしいえ) 1533〜1599。加賀百万石・前田家の祖。はじめ小姓として織田信長に仕え、柴田勝家の与力として信長から23万石を与えられ大名となる。信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、はじめ柴田勝家に付くが、後に羽柴秀吉に臣従した。羽柴秀吉の親友でもあり、若かりし頃は『槍の又左』としてその名を轟かせた。。 q:島津義(しまづよしひろ) 1535〜1619。九州の南端、薩摩国の戦国大名。関ヶ原戦役では紆余曲折あって西軍に参加するが、であまり積極的に行動せずに合戦当日に至り、また合戦でも兵をあまり動かさなかったという。島津家にとって義弘の存在は不可欠であり、その挙げた軍功の数は計り知れない。家康だけでなく秀吉も島津氏を恐れた。 r:北条氏康(ほうじょううじやす) 1515〜1571。関東から上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結び、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。今川義元と領土を奪いあっており、最終的には北条氏が静岡県を治めた。軍事的ににも名将と言われている。 s:佐竹義重(さたけよししげ) 1547〜1612。現在の茨城県を治めた。「鬼義重」の異名で恐れられ、北条氏と関東の覇権を巡って争い、佐竹氏の全盛期を築き上げた名将。伊達政宗との抗争で、兵力で圧倒的優位にありながら、諸大名の連合軍だったために諸氏の利害が対立して軍が機能せず、義重は政宗に勝利することができずに調停で和睦することを余儀なくされた。 t:浅井長政(あさいながまさ) 1545〜1573。領国は現在の北近江。織田信長の妹、お市と結婚し、織田家と同盟関係を結ぶ。長政は織田家との同盟を結ぶにあたり、浅井家と古い同盟関係にあった朝倉家を攻めないという約定を交わしていたが、信長がこれを一方的に破って朝倉家を攻めたため、信長と対立。信長は長政を殺したくなかったらしく、再三にわたって降伏勧告したがはねのけ自害した。 u:朝倉 義景(あさくらよしかげ) 1533〜1573。越前の戦国大名。越前朝倉氏第11代(最後)の当主。織田信長に攻めたてられ、多くの損害を被りながらもしぶとく落ち延びている。しかし最期は41歳で自害を余儀なくされている。また、若くして当主となり政務をとっていたが、次第に政務を放棄して、自らは遊興に耽るようになったと言われている。 v:里見義堯(さとみよしたか) 1507〜1574。房総半島を治めた武将。1561年、上杉謙信の北条氏康攻めに呼応したり、1564年の第二次国府台合戦で北条綱成と戦うなど後北条氏と徹底して対立した。しかし、この第二次国府台合戦で北条軍に大敗して安房に退却する。更に北条水軍などの攻撃と上総の有力領主の離反によって上総の大半を喪失してしまった。 w:最上義光(もがみよしみつ) 1546〜1614。出羽山形藩初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石の大名に成長させて全盛期を築き上げた。江戸幕府成立以は、義光は領内の復興に尽力した。義光は自国の民に対して非常に寛容であり、義光存命中は一揆もほとんど起きなかったと云われる。 x:尼子晴久(あまごはるひさ) 1514〜1561。現在の島根県東部(出雲)を治めた。毛利家と領土が隣り合っており、銀山を巡り合戦を繰り広げている。しかし、毛利家に滅ばされてしまう。 y:大友義鎮(おおともよししげ) 1530〜1587。現在の福岡、大分を治めたキリシタン大名。義鎮がキリスト教に関心を示して、フランシスコ・ザビエルら宣教師に大友領内でのキリスト教信仰を許可したため、これが大友家臣団の宗教対立に結びついて義鎮の治世は当初から苦難の多いものであった。さらに毛利氏に攻めされ敗戦を喫し、不利な条件で和睦せざるを得なくなった。 z:加藤清正(かとうきよまさ) 1562〜1611。肥後熊本藩初代藩主。豊臣秀吉 の家臣として仕え、各地を転戦し武功を挙げ肥後北部を与えられた。秀吉没後は 徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後熊本藩主となった。築城 の名手としても知られ熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々 の城の築城に携わった。 D:なんとなくネガティブな感じにしたかったので、文字を「孤独な科学者」(フィー リングで浮かんだものです)に、背景や文字の色を暗くしました。雰囲気は出 てると思います。